ウチのNIKOちゃんを紹介します

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還暦を過ぎて、ガタもきて

  初めまして、というか大変ご無沙汰しておりました。2年前にこのブログを立ち上げて、そのまま放置しておりましたが、この度再開することにいたしました。他のきょうだいの方々のお話をうかがって、私の経験していることを書いていくことも、どなたかの参考になるのではないかと思うに至りました。自分が死んじゃったら障害のあるきょうだいはどうなってしまうのだろうか?と考えている中高年さんは案外少なくないことが分かって、心強く感じています。
 
 では、まず、うちのきょうだいを紹介しましょう。本人62歳。いつもニコニコしていて、子どもっぽい感じの人で、昔は年より若く見えましたが、この数年でがくんと老けて今はすっかりおばちゃんです。ここでは、NIKOちゃんと呼びことにします。
 
 自分の名前は平仮名で書けますが、平仮名は読むだけで文章はわかりません。一緒に過ごしている肌感覚では、4歳の子供と同じレベルでものごとの理解はできまていると思います。病気のせいで、軽い片麻痺がありますが、自分のことは自分でたいていできます。読み書き算盤を知的レベルというならお粗末ですが、感情ははっきりわかり、成熟しているかんじすらあります。最近すごく感心するのは、とっても我慢強いことです。
 
  40歳過ぎまで親と暮らしていて、20年ぐらい前から、グループホームで暮らしています。しかし、そこは生まれ育った東京とは100キロ離れたA県。のんびりし、ゆったりした環境はNIKOちゃん向けですが、歳をとると病気で呼ばれることも多いので、この距離は悩みのタネです。

3人いたきょうだいは、今は2人、母98歳。第2のピンチ!!

昭和の3人きょうだい。一番後ろがNIKOちゃんです

 母は今98歳でうちの近所で1人暮らしをしています。この2人のあれこれをフォローしているのが次女の私です。ウチは3人きょうだいで、私とは4つ離れた弟がいました。過去形なのは、5年前に死んでしまったからです。50歳でした。NIkoちゃんとは仲が良く、自分が面倒をみるつもりでいたようで、遺書の最初の文章が「後を頼む」でした。背がすらっと高く、運動神経がよくて、やさしい。我が家のアイドル。
 
  一方、私は、異端児で、喧嘩もしょっちゅうして、早くに家も飛び出してしまっていたので、NIkoちゃんも、母も「なんであんたなの」と思っているかもしれません。当時としては珍しく両親共働き、当時の呼び方だとカギっ子、だったので、母が帰ってくるまでの間、NIKOちゃんと弟を守らざるえず、小学校の時からご飯もつくって、あげく、「あんだは自分でできるでしょ」と親は私のことははなんでも後回し。おかげさまで独り立ちも早くて、もの言いも大人みたいな子どもでした。その我慢が思春期に爆発しちゃったんでしょうね。当時の自分に会ったら、「あんたよく頑張ってるね」とほめてあげたいです。誰も言ってくれなかった、もんな。
 
 この前会ったごきょうだいはは、知的障害のある弟が本当に可愛くて仕方がないとおっしゃっていました。いろんな家族がいるのですね。私の場合は、若い時は逃げ回っていて、でも、 結局、振り切れずに、今は自分の意思でここにいます。今の自分は幸せだなと思うほど、NIKOちゃんは大丈夫か? と心配になっちゃうんです。性(サガ)なんでしょうね。「きょうだいは続くよどこまでも」は今の素直な思いです。
 
 時折、昔話をまぜつつ、私が体験した困ったこと、自分と家族のために調べた制度のことなどをつらつらと書いていきたいと思っています。

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